今は昔のこと、
それは僕が小学生の頃、
30歳を迎えた今にして思えば……
“あんた、明らかに創価学会員だったんじゃん!”
っていう祖母が、近所で拾ってきたヒヨコに、パッサパサに乾いた茹で卵の黄身の部分だけを無理やり食べさせ、窒息死させるという、
上手く言えないけど、ちょっとした、時空を越えた「ウロボロスの蛇」みたいな殺し方をして以来、動物を飼うという行為に何とはなしに胡散臭さを感じたりもするキクチですが、
花粉症はどのようなぐあいですか、皆様? キクチです。どうも。
とは言え、キクチ、
1匹の猫と一緒に住むようになって、もうすぐ2年が経とうとしております。(ちなみに学会員である祖母は、数年前から老人ホームにおります。)
飼っている猫の名前は「おちょま」と言いまして、これはちなみに
石川県の方言では「女性器」のことを表していることを最近知りまして、もし松井秀喜の前でウチの猫の名前を呼ぼうものなら、
「ヤラシーネ、カンパーイ!」
と、かつての優勝当時のような甲高い声で言って頂けることうけあいなのであります。
ちなみにウチの「おちょま」はメスです。これがオスだと、またややこしい話になっていたことでしょう。
亡くなったばかりのお祖父ちゃんの遺体に、「ガンバ大阪」のユニフォームを着せる、みたいな……ん? 違うか。
まあ、それはともかくとして。
そうして2年間、猫と生活を共にして何が変わったかというと、
平気で動物に日本語で話しかけるようになった、ということでしょうか。
今や、道端で野良猫をみるやいなや、「ワンバンコ」とフツーに挨拶してしまいます。
ファンタジーです。ファンタジーの世界の住人です、ボクは。
時には、
「むー? むーむむ? むーむーむむーむーむー? むー?」
と、甘えた声の「むー」だけを使って、おちょまに話かけたりもします。
それも、おちょまのお腹に顔を埋めながら。
友人と、バーで酒を飲みながら、フェリーニの映画について語るボクが、
三島由紀夫の小説について語るボクが、
「むー」である。
いくら、
「フェリーニ作品においてねえ、一番ボクがねえ、心動かされる映像はねえ、『そして船は行く』のラストシーンにおける……」
などと言おうとも、とどのつまり
「むー」である。
ファンタジーです。
ファンタジー酒場の常連です。ファンタジー・ビデオ・レンタル店『FATAYA(ファタヤ)』の会員です。
ファンタジー・ロック・フェスティバルの大トリです。劇団ファンタジーです。
「打った~! 大きい、大きい、入るかぁ? 入るかぁ? 入ったあああ! ……ファンタジー!」です。
でも、それでもボクはこう思ったりもしたわけなのです。
以前、動物病院へおちょまを連れて行く途中、
おちょまをカゴに入れて歩いていると、一人の浮浪者とすれ違いました。
もしこのとき、この浮浪者がおちょまのカゴをボクから取り上げて、おちょまを外の世界へ逃がしたとしたら、
ボクは一体その浮浪者に、何て文句を言えばいいのだろう、と。
もしその浮浪者に、「このほうが……自然!」と言われたら、ボクはなんて言い返せばいいのだろう、と。
猫を長年飼っていれば、それが今の社会現実的でない、それこそファンタジックな考え方であることは分かるのですが、
それでも、ボクはやっぱり躊躇するだろうなあ、と思います。
自分の飼い猫を逃がされた飼い主として、その浮浪者を殴るその拳を、一瞬、躊躇するんだろうなあ、と。
でも、しかしながら、最後には殴るのだろうと。
ボクは強く、その浮浪者を殴るのだろうと思います。
たかが、猫一匹のことくらいで、
ボクは自分よりも
10も20も年の離れた浮浪者の顔を、きっと殴るのだ。
おちょま今、これを書いている後ろで、小さい毛で出来たボールを使って、
暴れまわっております。
その様子は、「ほとんどエガシラ」という言葉でもって表現出来るかと思います。
埃が舞ってしょうがねえつーの。
とまあ、今もまた、
「しょうがねえつーの」
と、普通に話しかけたりしているキクチなのでした。にゃあ。